神戸聖隷のあゆみ
創立者と言える人は存在せず、集団合議制で運営

【特別養護老人ホーム恵生園建設準備委員会メンバー】
※河野博臣、※稲松斉、島田信一、吉田多喜男、兼平武男、北井益豊、斎藤義剛、※駒木根節也、瓦田信之、※俵つや子、二宮フミ、※前田光恵、ノーマン・パースンズ、金附洋一郎、※栗岡章、※美濃部道照、※田村冨美子 ※は故人
【神戸から和田山へ移住したメンバー】
稲松斉・友子夫妻(子2人)、越智靖・満喜子夫妻(子2人)、
兼平武男・ちづえ夫妻(子2人)、瓦田信之・よし子夫妻
―――4世帯14名
小泉らく、河野博臣、佐々木昭夫―――単身者3名
神戸聖隷福祉事業団の礎は西神戸教会の活動的な女性メンバーの方々

教会が建てられた1950年代は戦後の混乱期をようやく乗り越え、神武景気・岩戸景気と続いた本格的な戦後復興期。テレビ放送が始まり、ガス自動炊飯器が発売され、日本住宅公団(当時)の近代的な住宅が登場するなど、生活が一気に豊かで便利になっていった時代でした。
当然、国民は家族のため、会社のため、社会のために勤勉に働く毎日。一生懸命に働く心の支えとして、信仰が必要であり、西神戸教会での祈りは大切なことでした。
「社会に奉仕するクリスチャンとキリスト教会活動」の教え

このような時期にアメリカからノーマン・パースンズ宣教師が着任。40歳・50歳代の社会の中堅クラスで構成していた教会員たちに「社会に奉仕するクリスチャンとキリスト教会活動」を説き、2000年も前にイエス・キリストが実践していた「弱い人々に手を差し伸べる=隣人愛」を語りかけました。障害者基本法や公害問題が提起されて、社会が大きく揺れていたとき、教会員たちの心に「教え」と「弱者の訴え」とが響き合い、「何か社会的なことを」と考えるようになっていきました。
そのための行動の第一歩が、1971年(昭和46年)のキリスト教福祉の先駆者のひとり長谷川保が理事長をしていた浜松の聖隷福祉事業団の見学でした。
教会員で「めぐみ福祉事業会・恵生園建設準備委員会」を発足

17名の教会員が後援会の支援を受け、恵生園職員として和田山に移住
土地を持たない団体への公的援助の不許可や、和田山での土地確保後の福祉事業の内容変更指導など、恵生園開園に至るまでには、幾多の困難が立ちはだかりましたが、教会員たちの衰えぬ熱意と教えの実践への信念とで克服。1976年(昭和51年)、恵生園は重度身体障害者施設として開園を迎えることになります。ここでも西神戸教会の活動的メンバーは、教えの実践を確実に実行。教会員4世帯14名と単身者3名の計17名を和田山に送り出すのです。職場や知人・友人、学校と離れ、面識のない和田山で利用者のお世話をする大切な職務を任せます。神戸に残るメンバーは後方支援役を担当。
しかし17名は社会福祉の素人ばかりです。開園後は、毎日が勉強の連続。
重度身体障害者施設にふさわしい運営、利用者に求められるお世話を考え、「社会に奉仕するクリスチャンとキリスト教会活動」に取り組みました。
いつでも集団合議制が、神戸聖隷福祉事業団の特徴
神戸聖隷福祉事業団にはカリスマ的なリーダーが存在していません。特に創業時にはその特徴が色濃くでています。開園前の準備期は、建設準備委員会のメンバー全員で推進。恵生園誕生期は、神戸から移住した17名全員の集団合議制で運営。開園後は年長者ということで施設長を決めるが、実質的には集団合議制を維持。
その後、施設規模が大きくなり、人が変わっても強烈なリーダーシップで運営を行うのではなく、母体となった西神戸教会の「社会に奉仕するクリスチャンとキリスト教会活動」を忘れることなく、常に弱者に視点をおいた方針を受け継いでいく―――これが神戸聖隷福祉事業団の変わることのない姿勢です。